2011/08/06

record: RP 福居伸宏 Part 2



Installation view (gallery 1) – 『Asterism』at Tomio Koyama Gallery, 2010
Installation view (gallery 2) – 『Asterism』at Tomio Koyama Gallery, 2010


(Part 1はこちら)

AR 2009年から現在にかけて都内では建築の展覧会が多く開催され、清澄のコンプレックスでも建築展が行われましたが、そのような経験の後だけに、建築をより濃密に見る機会になったのではないでしょうか。 『Asterism』展の会期中もヒロミヨシイでの建築展(『TEAM ROUNDABOUT キュレーション|“超都市”からの建築家たち』)だけでなく、タカイシイでは畠山直哉さん、シュウゴアーツではジュン・ヤンの展示という、都市への批評的なまなざしを備えた作品が偶然にも揃っていましたよね。建物全体でひとつの企画展が行われているようにすら思えました。
Asterism』展で展示される限られた量の写真から、福居さんがどのように都市を見ているのか、どのような都市へのアプローチを提示しているのかに、個人的な興味を持っていました。展示は24枚の写真から構成されていて、その中でどのように都市の要素を配置しているのかを気にしながら見ていくと、都市のインフラが非常に気になる。特に交通網はその中でもわかりやすく見えていましたが、そのような意識はありましたか。

NF 都市のインフラについては意識はしていました。あの展覧会を作るにあたって考えていたのは、今までにやってきたこととは違うものをやりたいということです。過去に撮影していたけれども未発表だったもの、例えば水辺や植物が繁茂している場所というものを取り入れられればと漠然と思っていました。そして、水というものを考えていくなかで、都市のインフラ、水や電気や物流などをなんとか作品の中で扱うことができないかというのはありましたね。また、もうひとつのチャレンジとしては、そういった水とか電気といった写真に写すのが難しいものも、やりようによっては、仮に間接的ではあっても展示に盛り込めるのではないかと考えていました。

AR 『Asterism』展の構成を考える上で「3」という数字がある種のキーになっていると展示会場でお聞きしましたが、それについて教えていただけますか。

NF まず展示の形式自体が、ひとつの壁に写真を3点ずつ掛けていくというスタイルになっています。小山登美夫ギャラリーの7Fのスペースには、10メートル四方の正方形の空間(gallery 1)と5メートル四方の正方形の空間(gallery 2)があります。大きい方の空間の3つの壁にそれぞれ3点ずつ計9点の写真を展示して、小さい方の空間にも3つの壁に3点ずつ計9点の写真を展示してあります。それらに加えて、このふたつの空間とギャラリーの入口をつなぐ通路の、入口と小さい空間の間の壁面、小さい空間と大きい空間の間の壁面、この二カ所に3点ずつ計6点の写真を展示しました。つまり、大きな正方形の空間、小さな正方形の空間、通路という3つの空間を使った構成です。
Asterism』(アステリズム)というタイトルの意味のひとつであるタイポグラフィのアステリスクが3つ並んだ記号(⁂)を着想のひとつに挙げることができるかもしれません。「3」という数字が先か、アステリズムが先か、どちらを先に思いついたのか思い出せませんが、「3」を使おうということと、3つの壁、3つの空間ということが念頭にありました。
アステリスクが3つ、三角形に並んでいるアステリズムの形がおもしろいと思っています。ふたつのものの対比だけでなく、もうひとつ何かを加えることでもっと複雑な関係になる。AとBを比較するだけではなくCが入ってきた方がより豊かになると考えています。

AR 展覧会場に置いてあった作品リストにはそれぞれの写真に個別のタイトルがありましたね。展覧会名の「Asterism」とは異なるそれらのタイトルについて聞かせてもらえますか。

NF 大きな空間の作品では植物そのものにフォーカスするというよりは、都市の中にある植物、植物のある空間、その空間にある建築物の関係。その3つがせめぎあっているような空間を撮ったもので構成しています。植物を扱うということもあり、植物の構造みたいなものを表す「plexus」(プレクサス)という言葉、つまり網目状とか叢状という構造を表す言葉を作品タイトルにしました。小さな空間の作品はクラスター構造の「cluster」(クラスター )。ぶどうの房のような構造、建物などが塊となって、それらが折り重なって、さらに塊を形成しているような形ということでクラスターとしました。
展覧会ごとに目指しているものだとか、そのときの意図、今回の展示はこういう方向のベクトルになっている、ということを少しでもわかりやすくして、それをわかってもらえるように展覧会と作品のタイトルを付けています。
Asterism (plexus) - 2468


AR このようなタイトルとの関連の中で、植物が写っている写真は今までと違うことのひとつだと思いますが、それによってこれまでとは違う観客の反応はありましたか。

NF 植物のある環境は街路灯が減ってくるので、単純に暗いという反応がありましたね。あとは不気味な感じだといった感想もありました。こういった植物が入った写真を見せた理由には、僕自身が今まで発表してこなかったものであるということのほかに、精細な画像を得るために大判カメラで夜間撮影をすると露光時間がかなり長くなり、少しでも風があるとブレてしまってはっきりと写らなくなってしまうということがありました。今回のような写真には、デジタルカメラが出てくる前のテクノロジーではとらえられなかった状態が定着されていると言えるのではないでしょうか。現在の機材で出来ることは何かということを考えてみれば、こういう写真を見せるということにもまた別の価値があるのかなと思います。そのようなことも含めて、今回、植物の写真を展示しました。

AR ただ、いくつかの作品には植物のブレが残っていたと記憶していますが。

NF 若干ありましたね。露光時間が短くなるとはいえ、長時間露光で撮影するわけですから、風によるブレをゼロにするのは困難です。もうひとつ現在のテクノロジーに関していえば、ロケハンをせずに自転車で移動しながら、大判カメラのような解像感のある画像を撮影するということ自体が、デジタルカメラというコンパクトな機材の登場以前は出来なかったんですよね。

AR もう一度、植物の話に戻ります。植物という要素を作品に取り入れるときの考えとして、人工と自然とを対置するという方法があると思いますが、その点について、福居さんの場合はどのようなことを考えているのでしょうか。

NF 人工と自然、そのどちらかに肩入れするというわけではなくて比較的ニュートラルなスタンスだと思います。展覧会初日のアーティストトークでも話したかもしれませんが、自然という概念自体、人間が作り出したものだと思っているんですね。手つかずの自然といっても、それは人間が「手つかず」の状態にしているという時点で、すでに人為的なものであるという考え方もありますよね。そういうふうに考えていくと都市の中の植物にはすべて人の意識が浸透しているというか、人の意思によってコントロールされていると思うんです。植物には、空間を切り分けるためであったり、環境の美化であったり、いろいろな使われ方があると思いますが、どの植物を残してどの植物を残さないかというのも人為的な判断によるものですよね。
Installation view (passage) – 『Asterism』at Tomio Koyama Gallery, 2010
 
Installation view (passage) – 『Asterism』at Tomio Koyama Gallery, 2010

AR 大きい空間、小さい空間の作品がそれぞれプレクサス、クラスターでしたが、続いて、通路に展示された作品に移ります。通路の作品にもまた別のタイトルが付いていましたよね。

NF はい。正方形の空間の写真は大小どちらも作品タイトルの頭にまず「Asterism」とあり、その後に括弧でくくるかたちで「plexus」や「cluster」と付いています。一方、通路の作品は展覧会を読み解くためのキーという意図で、「Formula」(フォーミュラ)というタイトルになっています。その頭には「Asterism」という単語はついていません。

AR 「Formula」というのは公式、それはこの展覧会を見るためのひとつの公式ということでしょうか。

NF そうですね。そういう意味を含み込みながら日本の都市の成り立ち方を表している作品群です。通路にある3点組の2セットの作品はそれぞれがある意図を持って組まれています。

Formula – O, Formula – P, Formula – Q(左から)

NF この
3点の一番左の写真は廃墟ではなく建築物の解体中の写真です。その次、中央の写真はコンクリートのサイロというかコンクリートの工場施設の写真なんですけども、これは解体したコンクリートなどをリサイクルするところです。そして、右の写真は建築現場の仮囲い、仮設壁ですね。そしておそらくこの壁の向こう側では建物の基礎の部分を作っているところではないかと。

AR 解体から再生へ、さらに建て直したものが、後に解体されるということを想像しますね。

NF これは円環する時間になっているんです。タイトルの「Formula」の後にそれぞれ、「O」「P」「Q」と付けてあります。数学で三角形を表すときに3つの頂点を示す記号としてよく使うアルファベットです。その意味としては、言葉遊び的になってしまいますが、これらのアルファベット自体がそれぞれ閉じられた円を持っているということです。
Formula – N, Formula – M, Formula –L(左から)

NF もう一方の3点組は「Formula」(フォーミュラ)というタイトルであり、それぞれ「L」「M」「N」となっています。右の写真「L」はすごく古い共同アパート、バラック的な建築であり波形トタンを使っているような古い建物です。そして、その手前にプレハブが写っています。次の写真「M」は合理性を重視し、ユニットを組み合わせて効率よく作られた典型的な量産型の一戸建ての建築物。そして左の写真「N」は住居が多数集積した集合住宅ですね。デザイン的にも近年よく見かけるどこにでもあるような感じのマンションに見えます。そして、「L」「M」「N」というタイトルは数学で直線を表すときに使い、アルファベットの形それ自体も閉じていない、直線で構成されたものになっています。エントロピーが増大していくような感じと言いますか。

AR 先程の「O」「P」「Q」と、この「L」「M」「N」という組み合わせは円環の時間と直線的な時間とも考えられますね。

NF そうですね。そのふたつの時間の繰り返しによって建物が増殖し、その規模が大きなものとなっていくことで、日本の都市がどんどん膨張していくというようなことです。あまり話してしまうと見方を限定してしまうかもしれませんが、そのような意図を持って展示していました。

AR 福居さんは作品の話をするとき、明確な言葉をきちんと持っているので、それに従って作品を見なければいけないのではないかという気持ちになることもあるのですが、同時に、先程、言葉遊びという言葉を使っていたように、そこにはある種の緩さのようなものもありますね。言葉を制作していく上での推進力として使うというか、具体的な言葉があることで、そこに向かったらどういうものが見えてくるのかと実験してみるということもあるのではと思いました。

NF 「これが自分の個性です」という形でベタにやっていくと、却ってそれが個性的にならないということがけっこうありますよね。逆に、撮影の時点である方法、ルールを設けることで、その人の持っているものが出てきたりするということがあると思うんです。むしろ、そっちの方がありきたりな個性と言われているものから抜け出す有効な手段になるんじゃないかと思っています。

AR それは最初に話していたような、どこをルールづけ、どこで偶然性を取り入れるかということと関係していますか。

NF そのようなものを導入すること、それは「他者」ということかもしれませんが、自分がコントロールできない部分を持ってきたときになにかおもしろいものが生まれるかもしれない、ということがあると思います。最終的に展示はこの形になっていますけど、もちろん他の形になった可能性もありますし、もちろんその途中にはさまざまな試行錯誤があったりしますね。

Installation view (gallery 1) – 『Asterism』at Tomio Koyama Gallery, 2010

AR 次に、作品のサイズについてお聞きしたいと思いますが、大きな空間と小さな空間の作品ではサイズが異なっていましたよね。

NF 夜の写真は、主に72x48センチのものとその倍の144x96センチのものしか発表していないんですね。このふたつのサイズの関係と、展示空間の10メートル四方の大きな空間(gallery 1)、5メートル四方の小さな空間(gallery 2)という関係が使えるのではないかと思って、前者には144x96センチのものを、後者には72x48センチのものを選んで、それぞれの空間に展示しました。

AR 同じ画像をさまざまなサイズで発表する作家もいますが、そうではなくふたつのサイズに限定しているのはなぜでしょうか。

NF 同じサイズ、同じフォーマットの写真があることで、それぞれ比較対照して見ることができます。サイズが違ってしまうとやはり比べづらい。サイズが揃っていくとミニマルな感じにもなってしまうけれど、比較対照の方を重視したいんです。比較対照ということで言えば、タイポロジーという手法がありますよね。タイポロジーの初期に目指されていたものの可能性を、今、どうやったら汲み出せるのかということを考えています。同じサイズで展開して、同じようなモチーフをうまく扱うだけで、必ずしも典型的なタイポロジーのような手法をとらずとも、その可能性を受け継ぐ事は可能なのではないかと思います。
写真というメディウムを扱っている欧米の現代のアーティスト、写真家の中には、撮った対象だけをいかに一点ものの完結したタブローとして仕上げるか、いかによく見せるかというふうなことだけに腐心し、その目的のために画面のサイズ、比率をコントロールする作家がたくさんいます。そうしたフレームの中だけをよりよく見せるということを目指しているものと自分のやっていることは大きく異なると思っています。この夜のシリーズの場合、2年前の『juxtaposition』のときのように、フレームの中と外をどうやって扱えるのかを考えていくと、サイズを揃えていった方がむしろいいのではないかという結論に到りました。

AR ベッヒャーのようなグリッド構造によって浮かび上がらせることができるものがある。けれども、サイズを揃えるなど、別のアプローチによって、より広い展開の可能性が見えているのでしょうか。

NF そうですね。ただ、ベッヒャーの場合は扱っている対象、いわゆる「被写体」と言われるようなものの概念や視覚的な差異を扱っているという部分ばかりが前景化しているように思えます。一方、僕のようなアプローチであれば、その場、そこにある物、その空間といったような、さまざまな細部からもっと広がり持って展開できるのではないかと考えています。
デュッセルドルフスクールというか、ベッヒャーシューレというものがありますよね。批判めいたことになりますが、ベッヒャーの当初の考えというものも重要だとは思いますが、そのスタイルだけが模倣されて反復される、「ある特定のものを集めてみたら作品になりました」といったものが増えてきているのではないかという気がしています。そうはしたくない。だとしたら、それに対する別のことをやってみようかという思いがあります。

AR 一種のお手軽なパッケージングのようになっているところもありますよね。話を展覧会に戻すと、ほかにも気になることがありました。実際、僕は展覧会会期中にその話を聞いたのですが、『東京画」のときの「Multiplies」や「Invisible moment」でやっていたような、別の見方のきっかけを写真に含み、写真の見え方をドラスティックに変化させる要素がこの展覧会にもありましたよね。万人に向けているというより、気がついた人の写真の見え方がそれによって変化すればいいと考えられていたのかと思いますが。

NF そうですね。それに僕の展示を見た人がそのときに理解できなくても、事後的に何をやっていたかがわかってくるということもありだと思っています。むしろ、そういった「遅さ」というものも重視していますね。日常の経験でも、見たときにわからなかったものが後からわかったときのその前後の落差がおもしろかったり、衝撃だったりしますよね。逆にその方がその人の中にその経験がより深く残ったりもする。

Asterism (cluster) - 1276

AR 具体的にはこの写真、その中でもトリミングをした画像を用意しましたが、ここに写る建築について話していきたいと思います。当初、僕自身はこの建築について知らず、最初に展覧会を見た時点ではこの建築を気にして見ることはなかったのですが。

NF まず、これまで基本的にはランドマーク的なもの、都市の特異点としての建築といったものは画面の中に入れないようにして、人がふだん見ようとしないようなところに人の目が向かうように写真を撮っていました。文字情報があると、あらかじめ与えられたその文字情報によってその場所、写真に写された空間を見てしまうということがあるので、そうならないようにしてきました。しかし、この建築はメタボリズムの建築家として知られる菊竹清訓さんの重要な建築、日本の代表的な住宅建築を選ぶとすれば必ず名前が挙ってくるような「スカイハウス」という著名建築です。

AR 福居さんの狙いとは少し外れているかもしれませんが、建築はある特定の角度で撮られていたり、それによって、実際に見たことがないにも関わらず、知れ渡っていく建築のイメージがあったりしますよね。また、建てられた当時はメディアでたくさん扱われ、数年後には異なる用途に使用されたり、もはや存在していなかったりする建築もある。広告写真を含めたたくさんのイメージが世の中に流通する中で、それとは異なるイメージをいかに拡散させていくことを考えるとき、建築と写真の関係性は興味深い例のひとつです。僕自身、先程の写真にスカイハウスが写っていることは聞かなければ気がつかなかったと思います。そして、聞いた後でもそれがどこに写っているのか見つけるのに時間がかかりました。建築を知っていたとしても、記憶の中のスカイハウスと、この写真の中のスカイハウスとで一致する部分が僕の中ではほとんどなかったんですね。

NF それは、すでに世の中に流通しているような写真とは違うところから撮られているからだと思います。ひょっとすると建物の正面側から撮られていれば、どこかで見たことがある建築だと思ったかもしれないですね。スカイハウスに限れば、そこまで正面性の問題にならないのかもしれませんが。
振り返ってみると、2009年に清澄のギャラリー・コンプレックスのほか、都内のギャラリーで建築や都市を特集した展覧会をやっていたとき、小山登美夫ギャラリーでもちょうど菊竹さんが展示していたんです。菊竹清訓さん、伊東豊雄さん、そしてSANAAの妹島和世さんと西沢立衛さん。そこで菊竹さんのスカイハウスが建てられた当時のモノクロの記録映像が展示されていて、とても興味深く見たんですね。

AR その時点で『Asterism』の展覧会の予定は決まっていましたか。また、先程、ロケハンをせずに撮影しているとおっしゃっていましたが、この写真もロケハンをせずに撮影したものなのでしょうか。

NF あの時点では展覧会の予定は決まっていませんでした。この写真も撮影したのはけっこう前で、2007年か2008年だったと思います。撮った時点ではスカイハウスのことはまったく意識していませんでした。
2010年の個展を開催するにあたって、今まで撮ったものを全部見返していく中で気づきました。2009年に先程の建築展を観ていたこと、それに加えて、その後、フランス大使館でのグループ展『No Man’s Land』があったんですね。フランス大使館旧庁舎(同展覧会後に解体)はフランスのジョセフ・ベルモンという建築家・都市計画家が手がけた建築ですが、建設当時、日本側からは菊竹清訓さんが設計に携わっていました。一般的にジョセフ・ベルモンの建築と言われていますが、実際はふたりで作ったような建築で、その展覧会ではその場所で撮った写真をその場所に展示するというようなことをやったこともあって、菊竹さんについてもいろいろと調べる機会がありました。そのようなこともあり、菊竹さんの代表作のひとつであるスカイハウスも僕の意識の中に留まっている状態になっていました。その後、個展の準備過程で、写真にスカイハウスが写っていたことに気づき、僕自身びっくりしたんですね。

AR まさに先程言っていた事後的に驚く経験ですね。『Asterism』の会期中の清澄のコンプレックスでは、畠山直哉さん、ジュン・ヤン、ヒロミヨシイの建築展があったので、建築関係の方、建築に興味がある方がたくさん来場していたのではないかと思いますが。

NF 建築展をやることは知っていたので、それに合わせて『東京画』の展示の中に絵が入っていたような形で、作品の中になにかを埋め込むこともできるかなと考えていました。しかし、必ずしもそれに気づかなければいけないわけではなくて、細部にいろいろなものが写っているということがまず第一に重要です。

AR こういった絵や建築を作品の中で発見した後では、もはや以前の見方で見ることはできないのではないでしょうか。スカイハウスに気がつき、見方が変化することで、他の写真の見方へも影響を及ぼすのではないかと。

NF 『東京画』のときの絵と同じように注意深く見るということ以外に、大きな空間(gallery 1)の写真の植物と小さな空間(gallery 2)の写真の建築物、このふたつは人が管理しているのだけれど、そこからはみ出すように植物や建築物が乱雑に繁茂していくというふうな状態をアナロジーというか、重ね合わせる形で展示しました。それこそが日本の都市の典型的なあり方なのではないかという考えがありましたし、それも「Formula」で見せた循環する時間とリニアな直線的な時間というもの、新陳代謝のようなものと関連しています。だから、菊竹さんのスカイハウスが展示の中に入っているのはテーマとも関連して、いいのではないかと思っていました。
かつて、スカイハウスという名前の通り、サスティナブルな建築という理想を掲げ、崖の上に空に浮かぶように建てられていたメタボリズムを代表する建築のひとつが、その後の都市化と人口膨張の果てに、周囲を無名の建築、というか建物に埋め尽くされて、むしろマンションなどに見下ろされるような皮肉な状況になってしまっています。
Asterism (cluster) - 2926

AR 残りの時間を考えて、ここからは会場からの質問を受け付けたいと思います。

質問者1 『Asterism』展を見て、大きい空間にあった写真の解像度に驚きました。機材の話が出ましたが、なにか特殊なものを使っているのでしょうか。

NF いいえ、特に特殊な機材は使っていません。また、複数の写真をつなぎ合わせて大きな画像を作るというわけではなく、すべてひとつのフレーミング、つまりワンショットで撮っています。むしろそういう部分にはこだわりがありますね。いくら大きな画像を作ったところで、フレームによって現実を切り取らなければならないということに変わりはありませんから。撮影時にどれだけ高い精度でブレないように撮るかが大切です。もちろんカメラ自体はそのメーカーの一眼レフタイプのものではハイエンドのものを使っていますけれど。
一眼レフといっても、今はデジタルカメラの方がフィルムでいう中判や中判以上の解像度になっているので、そういう意味では厳密な撮り方で正しく撮影していればあれくらいの状態にはなりますね。

質問者1 それはヨドバシカメラのようなところでも買えるものですか。そうだとすれば、意識的にそうした選択をしているのでしょうか。

NF はい、一般的に量販店で手に入れられるカメラです。意識的な選択というわけでもないのですが、例えば僕の写真のうちの1点を誰か他の人が撮れたとしても、それはそれでいいと思うんですよね。僕にしか撮れないようなことをやっているというつもりはそんなにありませんね。

質問者1 もうひとつ別の質問があります。アクリルマウントによる反射から、リヒターのグレーのパネルの作品を思い出したのですが、反射して写り込みができるということに関してはどう思っていますか。

NF 写り込みは少ない方がいいと思いますが、まったくないよりはあったほうがいいかもしれません。その理由としては見る人が体を動かさなければいけない、その写真に対峙する中で、真正面だけではなく、少し右に動いたりとか左に動いたりとか、また、前後に動いたりとか、そういうふうにして見てもらうことで、写真全体ではなくて細部に目がいったり、あるいは隣の写真に意識が向いたりするということがいいんじゃないかと思っています。

調文明(以下、BS) 遠近法的なある一点から見るとこのように見えるというのではなく、動かなければいけないということですか。

NF 動かないと見えないという状態だと本当は良くないのかもしれないですけど、でもなるべく動いたりもしてもらいたいですね。離れたり、近づいたりも。というのもある特別な一点から安穏と全体を一望視するような状況を避けたいという意識があるからです。

質問者2 福居さんの写真を見て思ったのは、たしかに夜の都市はこう見えるはず、本来こう見えているはずなのに、写真の枠組みの中では今までこうした表現は見せられてこなかったということです。それによって、違和感というか、シュルレアリスムというか、超現実的なものを感じたんですよね。

NF なるほど。シュルレアリストも写真で無意識を取り込むみたいなことがありましたよね。僕自身はシュルレアリスム的なことを意識的にやろうとしているわけではないのですが、そういうふうに言っていただけるのもうれしいですね。

質問者3 アクリル板の反射の件を聞きながら思ったのですが、ちゃんと見るために動かなければならないというふうに鑑賞者を動かすというのはわかったのですが、この間の展覧会ではどういうふうに体を動かしても、ちゃんと黒が黒に見えない。どんなに照明と作品の間に自分の体を入れて陰を作って、黒くしようとしても周りが写ってしまうんですよね。それは狙いだったのでしょうか。

NF いや、狙いというわけではありません。例えば、テレビを見ているときにもテレビモニタに確実に写り込みはある。だけど、ある状態になればそれが気にならなくなり、見えなくなりますよね。僕自身、自分の写真を何度も繰り返し見ていて、画面の中がどうなっているか、すでに把握できているからかもしれないけれど、表面に写り込んでいる写真の外の像と写真の中の像を自分の意識の中で分離して見ることができるんです。でも、それを鑑賞者にあまり強要するというのはよくないことなのかもしれないですけど。重ね合わせてその両方を見たり、あるいは単体でどちらかを見たりとかをコントロールできるんですよね。「意識的にものを見る」ということの経験の多寡、多い少ないによりますが。
黒の色の問題の答えにはなっていないかもしれませんが、例えば、記憶の中の風景というものがあったとして、それは写真のようにある一瞬を切り取ったものではなくて、いろいろと体を動かして、目を動かして見る、その経験の中で様々なものが統合されて再構成されることでそういう風景が意識の中に浮かび上がってくるわけですよね。それと同じような状態になっているというのはいいことだと思います。オールオーヴァー、画面の中のものが等価な形で撮られているとなかなか全体を一挙には把握できない。そういうところで細部を見てみたりして、全体の形が作られていくという、それは僕はいいことだと思ってますね。

質問者3 結局黒が見えなかったりすると、離れて自分で形を想像しながら組み立てていくしかなくなるんですよね。そこではちゃんと見るということ自体が変わってきたので、おもしろいなと思いました。

NF なるほど。全体をもっと見やすくするというのは今後の課題でもあります。写真のサイズが大きくなっていったときに、鑑賞者の身長も様々であるという問題も出てきますね。作品を掛ける高さとライティング、つまり天井のライトの位置や角度、展示空間によってどの程度コントロールできるかは限られてしまいますが、その辺りをどう扱っていくかというのも今後の課題です。
でも、そもそもアクリルで見せるという方法はフレームがない見せ方の中で一番良い方法として何があるかと考えた末にあれを採用しているわけで、アクリルであることにこだわりがあるかというと、そこまで強くはないんです。また、アクリルマウントで写真を見せる人もすごく増えていて、アクリルを貼り、写真に白フチをつけて余白をとって、さらに額をつけたりということになってくると、それだけで作品然として見えてしまうということもあるので、今後どのように見せていくのかというのは課題ではありますね。

質問者4 展覧会のときには今回出てきたタイトルの付け方、「O」「P」「Q」や「L」「M」「N」といったものに全然気がつかなくて、今日のお話をとても興味深く聞いていました。福居さんの言語感覚が非常におもしろいと思いましたが、逆に言葉に引き摺られて写真を撮ったりすることはありますか。

NF もともと言葉を扱ったりする仕事をふだんはしているので、言葉に対する興味はありますね。写真を始める前は美術や映像よりもむしろ言葉の方に興味がありました。言葉に引き摺られて写真を撮るということは今後あるかもしれませんが、この夜のシリーズに関してはちょっと違う形ですね。ただ、今後はそういったこともあり得ますね。

BS 僕も福居さん、良知さんと打ち合わせのような形で話をしていたのですが、作品タイトル及び展覧会タイトルにすごく興味がありました。タイトルには、すべての作品を「無題」にしてしまうと分類できないが故に、個々の作品に、例えばそれと関連する事柄(撮影地など)を言葉にして付けるというような一面もあるように思います。それは、美術館が収蔵しやすいという、ある種便宜的なものとしての作品タイトルがあったり、あるいは展覧会等に出ている作品を共通して名指せるようにしたりなど、作品の同定の要素と関わるのかなと。しかし、福居さんの今回の展示の「plexus」、「cluster」、「Formula」というタイトルの付け方というのはそれとはずいぶん異質な付け方だと思いました。作品タイトルというものがいわゆる写真の付属物ではなくて、不可欠なものというか、このタイトルが写真というメディウムの一部というようなことになっているのではないか。エドワード・ルシェが「Twentysix Gasoline Stations(26のガソリン・ステーション)」というタイトルで写真を撮っていくというようなコンセプチュアルアートで行われていたタイトルの使い方と全く同じというわけではないのですが、そこにはまた新しい写真のメディウムの使い方というか、今までにあまりそういった形で展覧会タイトルを深く考えることはなかったと思い、僕の中で興味深いことでした。

Asterism (plexus) - 2848
Formula - Q

質問者5 今回の展覧会のポストカードに使われていた写真やこの木の影が写っている写真のふたつに顕著に現れているのではないかと思うのですが、像が写るという現象そのものが写真に表れているように見えました。そうしたことは意識的にやられていることなのでしょうか。木と木の影が写っているという構造があったり、写真が被写体そのものにならないということを写真というメディアの枠の中でやろうとしているように思いました。

NF それだけをやろうということはないですね。写真はそもそも現実の似姿でしかないですよね。この木の写真というのはギャラリーの入口から入って最初にある3点組の一番右側のもので、緑化のためなのか、新しく建設されている建物の脇に植物が植えられていました、建築現場付近にあるそうした植物を選ぶことで大きい方の展示空間の植物9点との関係を保っています。この3点の写真の前を通過してすぐ左側にある小さい方の空間に入ると、建築物でまとめた9点の写真がある。そういうこともあり、この写真をこの場所に展示しました。あとポストカードの写真との繋がりはまさしく今おっしゃっていただいたような実体と影という要素もありますよね。厳密にいえば、実体といってもそれは写真の中の実体にすぎないんですけど。あくまでも現実を写し取ったものが写真ですから。

質問者6 言葉を写真を見るための方向付けとして、すごく考えて使っていると思うのですが、福居さんはウェブでの活動もしていますよね。ウェブがなかった頃であれば、作品の展示の場や出版物の中でいかに言葉を置くかということがあったと思うのですが、現在、福居さんの中でどこに言葉を置くかということも自身の作品の発表と関係しているのでしょうか。

NF ブログに関しては作品ということではなく別の狙いがあります。自分のウェブサイトの方で毎週更新しているというのは、イメージを拡散させるという良知さんの言ったようなことに繋がる部分ですよね。見てもらう機会を増やして、見てくれた人になんらかのものをもたらすことができればと思っています。というのもどんどん出していった方がいいということに加えて、支持体がなんであれ、それは写真と呼んでいいのではないかと僕は考えているからです。それに、ウェブに出したものは、ウェブサイトで見るという構造上、サーバーからそれを一旦パソコンにダウンロードし、コピーして見ているということになります。いくら無断転用禁止などと言っても仕方ありません。どんどんコピーされて、拡散されていくということはいいことなのではないでしょうか。

質問者6 ウェブサイトには、福居さんのステイトメントがありますよね。それがどのように作品の見方に影響するかどうかということも考えていますか。

NF それも方向付けのひとつですよね。それがあった方が作品を読み取ってもらいやすいのではないかと思って、ステイトメントなどを載せています。実は最初の個展『Trans A.M.』のときはステイトメントを印刷したものを撮った写真をプリントし、大きく引き伸ばしたほかの写真と同じ展示空間の中に展示していました。やっぱり最初から言葉は重視していましたね。
しかし一方で、当初はある種のスタイルとして、因襲的と言ってもいいかもしれませんが、「写真は言葉ではないので言語を排除していく」といったふうな考え方に必要以上に囚われていた部分もありました。しかし現在では、写真は普段扱っているような言語とは違う形、別種の言語のようなものなのではないのかと思っています。

AR 今日はすでに展覧会が終わって半年近く経つにも関わらず、『Asterism』展を中心に貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。会場からも多くの質問があり、あらためて福居さんの写真への関心の高さが伺えました。今後もこうした機会を作っていければと考えています。本日はありがとうございました。



福居伸宏『Asterism』
2010年8月7日−9月4日
小山登美夫ギャラリー

福居伸宏(b.1972) 2004年から1年間、写真家金村修のワークショップに参加。主な個展に『Asterism』(2010, Tomio Koyama Gallery)、『Juxtaposition』(2008, Tomio Koyama Gallery)、グループ展に『DOUBLE VISION』(2010, トーキョーワンダーサイト)や『NO MAN'S LAND』(2009-10, フランス大使館, 旧館)がある。2008年The BMW Paris Photo Prize審査員賞受賞。 ウェブサイト:Every Sunday Nobuhiro Fukui  ブログ:Übungsplatz(練習場)

All images: (c) Nobuhiro Fukui, courtesy: Tomio Koyama Gallery