2011/07/23

Interview: 西澤諭志 – ドキュメンタリーのハードコア

「大井町 倉庫 窓A」(2011)

良知暁(以下、AR 今日は今年3月にサナギファインアーツで開催された個展『ドキュメンタリーのハードコア』のことを中心に伺いたいと思います。今回の展覧会では画面の中のずれを意図的に見せていますね。これまでは気づきにくい程度の操作をしていましたが、今回明確にずれを見せるに至った過程について聞かせてもらえますか。

西澤諭志(以下、SN) 見せるべきかどうかはかなり迷いました。昨年の秋にTOKYOPHOTO 2010に参加した際に出品した「ブラインド」(2010)という作品では、今回のようにずれを見せることで、画面が単なる間違い探しをする為のものになってしまうかもしれないと考えていて、ずれを出さない方向で制作していました。しかし、今回DMに使用した作品(「大井町 倉庫 窓A」)でいえば、分割された画面を結合する過程が、窓の手前にある格子の規則性を持ったずれによって、最終的な作品になる段階でそれがどのような見えをもたらすのか、プリントをする前に明確に感じることができました。これなら上手くいくのではないかと。もうひとつは去年ペドロ・コスタの『あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001)という映画の編集過程でのふたりの制作を巡るやりとりを撮影した作品を初めて見たことをきっかけに、映像を制作する過程をなんとかして一枚の画面で見せることは出来ないかと思いました。その過程を見せることで単なる一枚の写真というものの、これまでとは違う見え方を実感できたので、このような経験も含めて、なんとか入れ子構造のようなものを作ろうと考えたときに、敢えてずれを作るという方法を採りました。入れ子という言葉が適当なのかわかりませんが、例えば、窓を見るときに、それが単なる窓ではなくて写真としての窓を見ている。そして、最終的には額縁というフレームの中を見ているという形で複数のレイヤーを構成したいと考えていました。もともとの画像も手前のガラスや窓とそれらの奥の風景など何重かのレイヤーになっている。そうした構造を作品としてわかる状態にしたいと思いました。

AR そうした意識は2009年の個展のときに発表された新作では意識していましたか。これまでの作品、例えば「雪」(2009)ではフレームがないことでどこまでも拡大可能だという印象がありましたが、それに対して今回の展示では外側のフレームをはっきりと見せていますよね。

SN 以前は単純に手前と奥の空間の感じ方に興味を持っていました。確かに「網戸」(2009)は手前のガラス、網戸、水滴に映る空間と複数のレイヤーを意識させる画面になっていますが、写っているものの外側、額縁、といったより広い位相においてのレイヤーまで意識していたわけではありません。「ブラインド」も同じです。
今回の展示ではフレームというか窓の外側をちゃんと画面に収めようということで先程話したような意識が生まれてきたのかもしれません。現実においてもまず窓を介した向こうの眺めは、ひとつの映像であり、それを自分は見ている。その状態を撮影し、モニタという窓(あるいはフレーム)を介して、フォトショップを使い制作しながら写真にするという一連のプロセスからなにかを掴みとるわけです。そうしたことを作品で見せるにはどうしたらよいかと考えていました。

「ブラインド」(2010)
「巣鴨 自宅 窓B」(2011)
AR 窓だけではなく写真のフレームを意識させるために窓枠より外側にある黒い空間にある物がうっすらと見える状態で残されていて、その一方でスリッパの吊るしてある写真では僅かに黒い部分が残されていましたが、あれは意図的にフィルムの縁に見えるようにしたのでしょうか。

SN 窓の外側の陰影部に関しては自分の好みの問題かもしれませんが、構造だけが見えるものではなく、一見して魅力的なイメージでなければ意味がないと考えているので、一枚の写真としてちゃんと面白くなるようにしました。そして、よく見るとそれだけじゃなく広がりがあるというものを作りたいですね。フィルムの縁のように見えるのは意図的です。実際に撮影したものにはもっと部屋の様子がわかる位の範囲まで写っています。最初はこの窓の黒い縁の部分はすべて取り除いて、純粋にガラスの表面だけを写していたのですが、その状態ではどうもしっくり来ない。今回の作品では窓というひとつの枠を考えながら制作していたので、試しに黒い部分を残したときにフィルムのように見えました。しかも、それがすごくわざとらしい画面として出来上がりました。フィルムを擬態することで、もう一つの窓を可視化できたのです。やり過ぎだと言われるかもしれないとは思ったけれど、すべての作品を統一するわけでもないので大丈夫だろうと。実際はこのフィルムの枠に関しては指摘する人は少なかったのですが。

AR ギャラリーでお会いしたときにある意味ではどこを撮ってもよかったとおっしゃっていましたが、最終的に部屋の窓と倉庫の窓を選んだのはそこが最適な場所だったからなのか、それとも、新しい手法を試すために無作為に選ばれたのでしょうか。

SN 自分の中ではこのふたつの場所をきちんとドキュメント出来れば、他の場所でも躊躇なく撮れるような気がしていました。このふたつに絞っていくことは自分でも勇気のいることで、展覧会として成立するのだろうかと。ただこの一年、私が東京に出てきて生活が変わっていく中で、ちゃんと思い出せる光景、眺めを基準に限定していったときに自宅とバイト先の倉庫、このふたつの場所くらいしか思い当たりませんでした。それでもふたつあれば良しとしようと思いましたし、それらを写真にしておかないと気持ちが悪いと。部屋の写真はそれまでも撮っていたのですが、どう使っていいのかまだわかりませんでした。昨年、この部屋に引っ越してきて、なんとなく悪くない眺めだと思い、撮りたいと考えていましたが、どう見せていいのかというところまではいまいちよくわからない中で、最初に出来たのはDMに使用した倉庫の写真でした。あの写真が出来たことで今回の展覧会の方向性がわかり、その過程で部屋の窓の写真も撮り足して出来上がっていきました。展覧会の空間でいえば、倉庫の写真の方から部屋の写真へという流れで出来上がっていきました。

AR 今回は展覧会全体に窓というモチーフがあり、その上で画面を丁寧に作っているのですが、窓という要素が必要以上にフォーカスされて、あるひとつの方向から語りやすい作品になってしまうのではないか。それによってそこからこぼれるものになかなか注意が向かなくなってしまう危険性があるのではないかと感じたのですが。

SN どうでしょうか。自分の部屋だけを撮ることは私写真と言ってしまえなくもない。それを今の時代にどう新鮮に見せることが出来るのかと考えたとき、たとえこの1枚がいい写真だとしても、あまりに取りつく島がないのではないかと正直思います。ある意味では自分の小賢しいところかもしれませんが、語りやすさがなにかの呼び水になればいいかとも考えました。自分の撮影範囲が完全にドメスティックと言ってしまえるものなので、外側に連結させるなにかがないと本当に閉じたもので終わってしまう場合があり、それが自分でも難しいところだと思っています。鑑賞者と制作者の関係を考えたときに、どのようなものが理想的な関係なのかわかりませんが、ある程度は両者の対立を前提としてみてもいいのではないかと考えています。僕がやりたいことを示す一方で相手がリアクションを返せるところ、両者の相容れない部分を明確にする。だからこそ僕にしかわからないなにかは当然あって、例えば今回の画面上のずれの感覚がそれですね。自分はこのように見たと主張するのに対して、それでも実際の見え方とは違うじゃないか、と相手が言えるような余地を与えたい。そこに対立が生まれるようにしたい。

「巣鴨 自宅 窓A」(2011)
AR  以前から西澤さんは写真をじっと見ることを作品制作上のひとつの要素にしていましたが、今回ずれを使うことでそのずれた部分が観者が写真をじっと見るよ うに誘導する機能を果たしていましたね。フォトショップなどの機能を使うとき、その機能を上手く使うという考え方だけだと数年後にはソフトウェアの性能という側面から簡単に乗り越えられてしまうことがありますが、今回のような"誤使用"の状態でこそ見えてくる質を示す方法には可能性を感じますね。

SN それは今回、思っていた以上に効果的だと感じました。実際に狙い通りの反応を示す人もいましたし、必要以上にテクニックの話になることもありませんでした。そういう意味では最初は躊躇していたけれど、大丈夫だという実感が得られました。

AR 服やスリッパ、ハンガーなどの画面を構成している要素は撮影用に調整したものでしょうか。また、作品のサイズはどのように決まりましたか。

SN 撮影の際に、あまりにも服がたくさんかかっていたり、逆に何もなかったりしたときには調整していました。日常的に見ていたものを再構成するというのでしょうか。この結露も自分で作っています。カセットコンロを使って結露を発生させて適当な状態になるまで待ちました。結局、画面全体の仕上がりというのは分割して撮影しているのでわからないのですが、考えていますよね。このベッドのシーツの具合なども。根本的にドキュメンタリー=ノンフィクションではないという考えを持っています。作品のサイズに関しては、自分の癖なのかもわかりませんが、撮影した範囲を繋げるとほとんどのものが同じようなサイズに仕上がります。ラムダプリント、最大出力で出来るサイズがだいたいこれくらい。サイズということで言えば、気にしていたのは画像よりも余白でしょうか。余白や画像の陰影部分。先程も言ったように一見して、写真が面白いと思えるかどうかに関して、黒の分量や余白の分量はけっこう重要だと思いました。どうにかしてここを成立させなければ面白い写真にならないと気を使った部分です。複数の画像を繋げていくと全体の形が四角に収まらず、余白の部分にはみ出してくることもあるのではないかと質問されたのですが、それをやってしまうと、今の僕の実力では最終的な画面がまだ構築できないのではないかという気がしています。事実、やってみようかと思ったのですが、やっぱりまだ難しいと。

 
「星座や地図」(2008)
AR そういう意味では山形県での個展『I’m here』で発表した作品とアプローチに似ているものがありますが、今回の作品には違う意図も入っているので仕上がりも異なるのでしょうか。ずれを使うという点では共通していますが、額を使わず、最終的な形も四角ではなかったですね。一方で今回は額ありきの作品でしたね。

SN まず、前回の個展ではアクリルマウントを使用しました。それ以前の写真新世紀での展示でも使用していますが、アクリルが自分に合っているのかどうかはずっと考えています。学生時代の卒展では上から吊るした状態での展示です。直張りという状態が一番好きなのかもしれません。余白ありの直張り。ただ、保存するときにひとりでやろうとすると絶対にプリントを傷めてしまいます。そんなことも有り、今回は額の方が相応しいのかなと考えていた上に、入れ子構造にしたいという狙いも出て来たので額に決めました。アクリルマウントの場合、基本的にはその外側の空間がきれいであること、又はちゃんとコントロールされていること、ギャラリーや美術館で見ることが前提にある気がします。その展示一回限りのものという気がしないこともない。それと比べたときに額はそれ自体がいったんそこで閉じているので意外と場所に対してフレキシブルかと。ホワイトキューブではない個人の部屋で見ていると額の方がいいという気がしますけどね。もちろん展示をきちんと見せたいという意識はありますが、どちらかと言えば一枚の写真としての強度を重視しているので、額の方が合っているのではないかと思いますね。ただ正直に言ってしまえば、写真それ自体がフレキシブルなものだから、そのときに応じたものでいいと思うし、フォーマットやサイズも統一する必要はない。実際にはまた別のシステムのことも考えなければいけないのですが。一枚の作品を見た後で外に出たときに、それまでとは見方が変わるきっかけになればいいと思います。人はそれまでの経験から、ものを見る/見ない、という判断を行っていると思うので、そのときに実際にものの見方が変わるような、ひとつの別の見方を導入できるような作品を作りたいのです。

AR 今回の展示では画面内にずれが残り、操作されていると理解できる。それでもなお、これが記録として機能する可能性について考えさせられました。意図するところと違うかもしれませんが、対象となったのが自宅と倉庫のふたつの場所ということで、これを2000年代もしくはそれ以前から10年代にかけての東京で暮らしている20代のひとつの生活のモデルケースの記録として考えることができるのではないかと。20,30年後にこの作品を見たとき、この時代のある種の記録として見える可能性が潜んでいる、それがタイトルに使われていたドキュメンタリーという言葉とどこかで呼応しているような気がしました。画面の中のずれを見て、パソコンで操作していることがわかってもなお、写真がなにかの記録であるという部分が機能するのではないかと。展覧会のタイトルは以前、写真新世紀に出した作品に付けたものと同じ『ドキュメンタリーのハードコア』になりましたね。

SN このタイトルは自分の中のマニフェストみたいなものです。自分が作るスタンスとして"ドキュメンタリーのハードコア"というものがあるとやりやすい。今回は自分の部屋とバイト先のふたつの場所、その限定された空間の往復から作品を作っていました。こうした状況でもドキュメンタリーが可能であれば、そこにもう一度"ハードコア"という言葉を使ってもいいのではないかと思いました。もう一度使うことで自分の中で変わってくるものもあると思いましたし、今回の方が前のときよりもしっくり来ますね。一般的にドキュメンタリーという態度が社会的事象、報道的な側面と結ばれやすいのは相性がいいからなのだと思います。ただし、それは逆であるべきで、本当はもっといろいろな方法があるはずだけれども、単純に相性がいいからという理由で特定の手法が一般的に用いられているだけで、何をどこまでドキュメントするのかは考え方次第でさまざまな方法がある。例えば、小説を読んだ体験をドキュメントするときに、その小説をすべてスキャンしてもその体験ができるわけではない。なんらかの方法でドキュメントできるはずだけれども、その方法が一般的ななにかとして認識されていないから小説をドキュメントするというイメージがわかない。写真を例に考えれば、なんとなく面白いと感じた場所を撮影した結果、あまり面白くなかったときに、それはそもそも場所自体が面白くなかったと考えるのではなく、単純に撮り方が悪かったと考える。制作方法とその対象との相性が悪かっただけで、別の方法でやれば、いつかはそれがちゃんと形になる。いつかちゃんと写真にしたいのであれば、それは必ず写真になる。自分が方法を変えるだけなんです。ドキュメンタリーというのはそういう姿勢のことだと考えています。ロバート・J・フラハティというドキュメンタリー映画の監督の『アラン』(1934)という30年代の映画がありますが、これなんかは完全に劇映画の方法なんですよね。演出されていなければ撮れるわけがないんです。離れ小島の漁師の生活を撮った映画なのですが、それを見ていると、これくらい昔からも、このような映画に演出があるに決まっていると。昔の鑑賞者は今より与えられた映像が真実なんだという認識が共有されていたからできたことなのかもしれませんが、それでも演出していくことで監督か誰かが感じたものをひとつの作品にしていくというのがドキュメンタリーなんだろうなと。確かサイレントだったと思います。別の例を挙げれば集合写真も演出されていますよね。それでも写された頃のことはわかるし、資料価値もある。それは顔が写っているからとかではなくて、なにかそのときのことが思い出される仕組みになっている。演出されたから嘘かと言われればまったくそういうことではないのです。ある程度自分の意志で作っていったものが必要なのかと。そうであれば、写真を嘘か本当かという次元で見ることはない。

展示風景 – 『ドキュメンタリーのハードコア』at Sanagi Fine Arts, 2011
展示風景 – 『ドキュメンタリーのハードコア』at Sanagi Fine Arts, 2011
AR 今回の展示が始まる前に考えていたことに対して、実際にギャラリー空間に設置したときの最初の感触はいかがでしたか。

SN 展覧会初日は自分でもどう展示を見ていいのかわからない状態でしたね。最初はまだ不安が残っていました。地味な展示だなと。ただ窓が写っている写真という、ここまで切り詰めた展示をしたことはこれまでなかったかもしれません。会期中にいろんな人と話していく中で自分のやろうとしていたことを確信していきました。不思議なことですが、人の言葉によって自分の考えが整理されたり、逆に自分が本当は何を考えていたのかわからなくなったりと、対話を通して自分のやっていたことを確認していくという。今回の個展が僕自身4回目だったのですが、展覧会をやることで次の手が見えてくるということは本当に馬鹿になりませんね。これをやったから次ができるという感覚。いきなり飛躍するのではなくて一歩一歩進んで行くということを今回強く実感しましたね。これをやったことで今までの事が割とスムーズに繋がっていく。

AR ハードコアな部分から始めると考えていた展覧会が終わって、今後、自分の部屋と倉庫以外で撮影したい場所は出てきましたか。

SN いま考えているのは自分のテリトリーのことです。これまではずっとドメスティックな場所を撮影してきたと考えていますし、この部屋に関してはある程度撮り尽くしたという感覚はあります。そこで、自分のテリトリーというのはどのくらいなのかを見てみたいです。自分のテリトリーなのかどうなのかわからない微妙な場所を撮影できないかと考えていますね。例えば自分がよく知っている美術館の窓。もう10年近く通っている美術館の窓の眺めを撮影してみる。本当に撮るかどうかわかりませんが、自分がいる美術や写真という制度の内側からその外側を見る。自分のテリトリーを拡大したいのかもしれませんね。これはきちんと考えなければいけないことですが、実際には自分の部屋もテリトリーなのかどうかわかりませんね。偶然ここに住んでいるだけで、与えられた状況を受け入れているに過ぎない。そうして与えられたところを無理矢理写真にしてきたのかもしれない。好みの写真の光景に出会うまで移動するのではなく、与えられた状況をなんとか自分のものにする、それこそ写真に撮ることもひとつの手段です。そういう意味では無理矢理海外に連れ出されてなにかをすることも実は有効なのかもしれません。写真になるまでその場所に付き合う。結果として出来なかったら出来なかったで、何が違ったのかを考えることができます。

「情報棟 貯水槽蓋」(2007)
AR 以前のINAXでの個展のときも、この床の写真を見せながら、写真になるまでその場所に付き合うことの重要性を話していました。それは今でも変わらない考えとしてあるんですね。

SN この床の写真を撮ったとき、こんなところでも写真になるんだということが実感できて、もっと続けてみようというきっかけになりました。一番思い入れのある写真かもしれませんね。やっぱりいつかは写真になるんですよ。それを待てずに動き続けて、その結果としてある光景に出会うということも当たり前のようにあるけれども、自分にとって関係のある場所、関係を持たざるを得なかった場所が映像史の中に組み込まれて、ひとつの視覚体験のあり方、つまりひとつの写真になるまで自分が付き合う方にやりがいを感じるし、それが大事なことだと考えています。
 (2011/05/04, 西澤諭志自宅にて)


西澤諭志『ドキュメンタリーのハードコア』
2011年3月15日−4月16日
サナギファインアーツ
http://sanagijima.com/


西澤諭志(b.1983)
2008年東北芸術工科大学卒業。主な個展に『ドキュメンタリーのハードコア』(2011, サナギファインアーツ)、『可視は不可視か』(2009, サナギファインアーツ)、『西澤諭志 展 – 写真/絶景 そこにあるもの –』(2009, INAXギャラリー)、主なグループ展に『Exchange Tokyo→Osaka』(2011, The Third Gallery Aya)など。2007年、2008年にはキヤノン写真新世紀にて佳作を受賞している。
ブログ:http://d.hatena.ne.jp/areti/